森のそよ風のブログ

ゆっくり資産運用と、日常の記録

大徳寺黄梅院


先日 京都に旅行した際、紫野の黄梅院に行って来ました。
千利休の設計・作と伝わる日本庭園が、息をのむ美しさでした。


宿泊していた宿の女将さんから、「北大路方面に行くのでしたら、千利休ゆかりの寺があります。見ごたえありますよ」と薦められました。
もう一つ、同じ大徳寺内の、細川ガラシャゆかりの高桐院も教わりましたが、そこは今回は残念ながら公開されていませんでした。


黄梅院は、臨済宗 大徳寺派本山の塔頭 (たっちゅう)で、織田信長が初めて上洛した際、父・信秀の追善菩提のために羽柴秀吉に普請を命じて建立した「黄梅庵」が始まりだそうです。
本能寺の変によって信長が急逝すると、秀吉がこれを徐々に増築し、更に天正17年(1589)に鐘楼、客殿、庫裏等を小早川隆景の普請奉行のもとに改築し、名も「黄梅院」に改めたとのことです。
黄梅院は、秀吉の軍旗「千成瓢箪」をかたどった池と加藤清正が朝鮮出兵の折りに朝鮮から持ち帰ったと伝わる灯籠が配される「直中庭」を、茶人の 千利休が設計したことでも有名です。



大徳寺の総門から入ります。



大徳寺は、京都でも有数の規模を有する禅宗寺院とのことで、境内には仏殿や法堂(はっとう)をはじめとする中心伽藍のほか、20数か寺の塔頭が立ち並ぶ広大な境内を擁しています。


下の図が、大徳寺の全容を示す山内図です。
下辺の中央付近に、本日 訪問目的とする「黄梅院」があります。


大徳寺境内の塔頭は、公開されていないところも多いですが、仮に全て公開されていたとすれば、一日や二日では、到底回り切れないと思われます。



では黄梅院に向かって歩きましょう。
下の写真が大徳寺の境内の参道です。参道に沿って多くの塔頭(個別の寺院)が建ち並んでいます。土壁や松の木も風情がありますね。


黄梅院の入り口の門に着きました。

春の公開中のようです。


早速入ります。入口の事務所で拝観料千円を払いました。大徳寺内の塔頭は拝観料400円~600円のところが多く、黄梅院は高めでしたが、観終わってみたら 他の塔頭の数倍の見ごたえがあったと納得しています。


内門に至る庫裏前庭です。前庭が既に苔むしていて雰囲気がありますが、内部の日本庭園などを想像すると期待が高まります。


建立に携わった戦国武将の小早川隆景の墓所があることが表示されています。


内門です。茶室・露地の中門のような趣です。
この寺院自体が、わび茶時代のものですからね。


靴を脱いで寺院の建物内へ。


いくつもの回廊を伝って、奥へと進んで行きます。それにしても広い。


直中庭(じきちゅうてい)
 利休六十六歳の時に作られたと伝わる池泉式の枯山水庭園です。

この位置で廊下に座って20分ほど、言葉も出ず、ただ眺めていました。



利休の木像の写真

この像が、後に千利休が秀吉から切腹を命ぜられた一因とされているそうです。


破頭庭(はとうてい)
 苔庭、白川砂、二つの石 という三要素だけの単純な構成が逆に美しく、悠久の時の
 流れを感じてしまいます。


庭は本堂の前にあり、本堂の襖絵も味があります。


回廊を渡った側から見る破頭庭
この場所でも、三十分ほども座り込んで立ち上がれませんでした。
塀の外の木はほとんどが もみじ だそうで、秋の美しさが また素晴らしいそうです。


閑坐庭と坪庭


庫裏(需要文化財)
 日本に現存する禅宗寺院の庫裏としては最古のものだそうです。
 火災に弱い古い木造建築の寺社で、このような時代の庫裏が残っているのは珍しいとか。


作仏庭
 本堂の北側、茶室「東禅」との間に創られた枯山水の庭


この狭い空間に無駄なく配置された山と海と島。

日本の自然の縮図でしょうか。 ただただ 素晴らしいです



帰りは来た廊下を入口まで逆に戻りました。
入場の時に出迎えてくれた織部灯籠を観ながら、辞去しました。
茶人好みの灯籠として、武将・茶人の古田織部正重然が新しく考案した灯籠だとか。
竿石(胴の部分)が十字架様のため、切支丹灯籠とも呼ばれるそうです。



信長、秀吉、利休、小早川隆景、キリシタン大名の古田織部と、戦国から安土桃山時代の歴史を感じました。
激しい戦国時代を生き延びたからこそ、わび茶や 枯山水などに心が向かったのでしょうか。
「長い歴史」と「一瞬のときを楽しむ お茶」の対比を感じ、また、時代の変化の速さと 時間を超越した悠久の自然を表現する日本庭園の美しさに打たれた 黄梅院訪問となりました。


桂離宮とともに、いつか再訪したい場所です。


ではまた。