森のそよ風のブログ

日常生活の記録、旅行記、世の中の動向の観察

二つの大規模山火事の その後


こんにちは。


岩手県大船渡市を覆った大規模な山火事は、10日ほど前の3月9日に さしあたっての鎮火宣言 (延焼拡大の危険がなくなった旨の宣言) が出て、その後は被害拡大のニュースも聴かれていません。

避難者の帰宅も順次に進んでいるとのことで、復興は課題ではありますが、まずは一安心でしょうか。


先月、米国で勤務していた頃のアメリカ人の同僚と、四半世紀ぶりに連絡をとった内容のブログをアップしましたが、そのきっかけは、ロス・アンジェルスの大規模山火事でした。

L.A. の火事の期間も長く、発火(1月7日) から 鎮火宣言 (2月2日) まで一か月近くを要し、その間に1万7000棟の建物が破壊消失し、29人の死者が出たとのことです。


先日のブログに書いたアメリカ人同僚の娘さんも 被災して家をすっかり失くし、クラウドファンディングで再建費用を募っていると聞き、ささやかながらファンドしたら、お礼のメールを頂戴しました。

家を失った今、小さな子を抱えて どこで どのような形で暮らしているのか、詳しいことを聞くことは 到底ためらわれてしまいますが、お礼のメールを読んだ限りにおいては、多くの人々からの温かい募金や励ましに支えられて、気持ちが前に向いている様子が 言葉の端緒に感じられました。

そしてそれは、むしろ逆にこちらの心を打つものだったので、当人に断っていませんが、一、二節だけ引用させていただきます。

...... It means so much to us to know that we aren't alone in this world, and every gift, note and connection makes us feel much less hopeless about the future.

We know it will be hard for a while, but we are looking forward to healing and having a great future for our children.

..........


世界では、火災や自然災害のみならず、もう何年もの長い戦火に苛まれている地域もあり、一日も早く平穏が戻って欲しいものです。


ではまた。


ホワイトデー 今は昔(再掲)


こんにちは。


今日は、ホワイトデーですね。

以前と比べてかなりクールダウンした感があるホワイトデーですが、数年前に掲載した話題(十数年前の経験談)を再掲したいと思います。


ホワイトデーの話題に行く前に、1か月前の14日はバレンタインデー💝でした。

バレンタインデーの意義も 大きく変化したようで、女性が意中の男性に本命チョコを渡すことはメインではなくなって、女性が同性の友人に渡す「友チョコ」や、自分へのご褒美としての「自分チョコ」が多くなっているとか...。


筆者は、十数年前まで米国で8~9年 仕事をしていた時期がありますが、バレンタインデーが「女性から男性への告白とプレゼントの日」という意味は、米国では当時から全くなかったと思います。
職場では、日ごろお世話になっている上司・部下・同僚に、男性からも 女性からも、異性・同性は問わず、感謝の気持ちを表現する日でした。
プレゼントの品も、チョコレートというのはほとんど見当たらず、お気に入りのワインや 自家製のクッキー、渡す相手の趣味の関係の品物などが多かったと見受けました。
筆者も仕事で近しいアメリカ人同僚の少人数に絞って、ワインや 米人でも食べられそうな日本の菓子などを渡したと記憶しています。


さて、一か月後のホワイトデーですね。
どうでしょう。日本特有のホワイトデーは、一時ほどの盛り上がりはないように思えます。


さて、現役の時のアメリカ勤務時代に担当していた部門では、筆者は 数十人のアメリカ人達とともに、欧米の企業向けの業務ソフトウェアを開発していました。
この米国の部門と 東京本社の開発部門との間で、当時 あるアプリケーション・ソフトウェアを共同開発しようという話が持ち上がり、東京から関係者数人が開発方針を整合する会議のためにダラスに出張してきました。翌年度の開発投資予算の決定時期を控えた2月下旬か3月の上旬の頃だったと思います。


日米の開発のキーマンが集まる この種の会議は、スムーズに和やかに進むこともあれば、しばしば開発方針や分担の面で意見の食い違いが生じることもあり、出向で米国に来ている日本人は、双方の言い分を立てて妥当な落としどころに導くことが重要な務めの一つでした。


その日は、少し緊迫した昼間の会議を何とか乗り切り、夜は親睦を深めようと懇親会をすることになりました。

話す言語は違っても、概念やテクニカルな用語は共通するので昼間の会議は (対立する事柄はあったとしても) 意思疎通は図れますが、アフター5では、話題が がらりと変わります。米国人だけで、あるいは日本人だけで 小さなグループに塊まってしまい、それぞれの言葉でローカルに話し始め、特に初対面のメンバー同士では盛り上がれないことが少なくなく、間に入る駐在出向者の工夫のしどころです。
一体 今夜はどうなることか・・・。


ともかくも皆でステーキハウスに繰り出しました。レストランの一室を貸し切りにして貰いました。

最初の乾杯が終わって少し経って、まだ全体の雰囲気が堅い中、アメリカ側のリーダー格の女性マネジャーの Cindyが、日本チームの責任者の筒井氏(男性:仮称)に 話題を投げかけました。


Cindy:ミスター ツツイ、”ホワイト・デー”  ッテ ナンデスカ? セツメイシテ クダサイ。
と訊いたものです。(もちろん英語で。)

アメリカでは White Day って 存在しませんからね。

皆、何の話が始まるのかと 耳がダンボの状態になっています。  

パーティーで、米国人だけ、日本人だけ で 塊ってしまうよりは、興味を引く面白い話題を提供することは 心理的な壁を取り除くのに非常に大事で、それでいて、意外に難しいのです。


筒井さんが答えて曰く、
筒井さん::We have Valentine’s Day on February 14th as you know.  Usually ladies present chocolates to men in our case. Then we have White Day in Japan on March 14th that is exactly one month later from the Valentine’s Day.  Men who got chocolates must give something to the ladies in return on the White Day.
(筆者の聞き取った英語は、多少怪しいです。)

と、真面目な性格を反映して 無難に返答をしました。

Cindy:All right, I understand.
と、とりあえず納得したという表情。


Cindyは実は それまでにも何度か日本出張の経験がある。ホワイト・デーの習慣を既にある程度知っていて、話題づくりのために あえて持ち出した風にも見える。こういった席では、けっこう気を遣っています。


皆が興味を持ちそうな話題が出たので、私も話の輪に入ってみることにしました。
懇親会参加者全員 (特にアメリカ人) に聞こえるように、
私: By the way, do you know obligation chocolate?  This is an important custom especially in Japan's business environment.

と言ってみました。

笑い声が起こり、あちこちでざわめきも出て、硬い空気がほぐれて来ました。


サンノゼから参加の米人のGary(男)がすぐに、
Gary: I have never heard that.  But I think I know it!
と反応してきた。義理チョコがわかって貰えるか自信はなかったが、ある程度通じたようです。

(「義理チョコ」という言葉も、今日では既に死語となってしまったかも知れません。)


ところで英語的に正しくは、obligated chocolate と言うらしいです。隣で米人の誰かが小声でそう言い直して自ら納得している様子です。


私は続けて、やはり今回 出張で来た玉木氏 (以前に米国7年の出向経験) に犠牲になってもらった。

私:Mr. Tamaki is very popular over there, so he might have got one hundred chocolates. It must have been very difficult for him to distinguish true Valentine chocolates from the obligated ones!
と言ったら 大笑いになりました。


それがおさまり、しばし間をおいて最初のCindyが、
Cindy: Mr. Tsutsui, then, what and who do you return gifts on White Day for obligated chocolates?
と東京の筒井氏に向かって訊いた。流れ的に面白い展開の質問です。

筒井氏: We usually give candies or cookies in return to secretaries or woman-colleagues.
とソツなく返答しました。米人皆、興味深そうに聴いています。


私: Everybody,  the most important point is that you must not forget the return gifts on White Day. If you forget it, then you will not get nice smiles from colleagues for about one month probably.

と言ったら爆笑になった。今だったら、セクハラ か パワハラ スレスレの発言ですよね。
私: Of course this is just a joke.  But it’s better not to forget it.
と言って自分でフォローしました。


日米の懇親会は打ち解けて、 あちこちで 米人と日本人が入り混じって話の輪ができ、笑い声が起きて、夜が次第に更けてゆきました。


今でもホワイトデーが近づくと、この時の懇親会を 思い出します。
まだ40代の脂が乗っていた頃のアメリカ人たちとの仕事や飲み会、懐かしい米国勤務時の思い出の一つです。当時からすると、今日の文化・習慣は、かなり変わったと実感します。


ではまた。




















































第13回 言葉遊びの会 兼 会食


こんにちは。


先日、近くに住む友人夫妻と会食を兼ねての「言葉遊びの会」をしました。
今回が 13回目です。


言葉遊びの「お題」は、『四文字熟語を5文字で解説しよう!』です。


では、どうぞ。

持ち寄った作品を、一覧にしてみました。


ではまた。

東博 「旧嵯峨御所 大覚寺展」 を観て来ました


こんにちは。


上野公園の東京国立博物館でやっている「旧嵯峨御所 大覚寺展」を観に行ってきました。
3月16日(日)までです。


大覚寺は、平安時代の初期(800年頃)、嵯峨天皇が造営した離宮である「嵯峨院」が発祥となっており、その後、高僧空海が宗祖となった皇族の門跡寺院とのことです。
とりわけ名高いのは、その宸殿が元和年間(1620頃)に後水尾天皇に入内した和子の女御御所を移築したものと伝えられて、内部に狩野山楽の代表作となる 襖絵・障子絵などの障壁画が重要文化財として 数多く残されていることです。
それらが今般、東博に持ち込まれて公開されています。


上野恩賜公園入口の案内図



早速 平成館に行きます。


展示室に入場して、まず、五大明王像など数多くの仏像、歴代朝廷の法王の肖像画、寺の調度品 などが展示されていました。
すべて撮影禁止です。


中ほどを過ぎて、「第4章」女御御所の襖絵 に入ってから、静止画の撮影が許可されています。
牡丹図などの襖絵を一番見たいと思っていたので、撮影可は嬉しいところです。



最初の一角は、障子絵(含む板障子絵)でした。
地味ですが、これはこれで なかなか味がある。


そして次第にメインの障壁画の展示へ。



帳台、硯箱、なつめ (茶道具) などに描かれた 蒔絵のモチーフとなった「桐竹図」の 蒔絵デザイン画なども展示されています。




大覚寺内の「御冠の間」(通常 非公開)は、かつて後宇多法皇が院政を執った部屋で執務の際に御冠を傍らに置いたことから そう呼ばれているとのことですが、ここ上野に再現されています。

再現された「御冠の間」


そしていよいよ最大の見どころの 狩野山楽の絢爛な襖絵のコーナーです。


竹の間


松鶴図


牡丹の間




紅白梅図



すべて観終わって、休憩室から見た公園内の風景 と 遠方に上野の街


ロビーに出たら 京料理 たん熊 が出店していて、巻きずしでランチにしました。


大覚寺展、見応えがありました。
嵯峨野の大覚寺に行ってみたくなりました。


ではまた。

Jeff のこと


こんにちは。


25年以上前の 2000年より少し前のことですが、アメリカ (テキサス州) で働いていた頃に、ジェフという 一人の男と同じ部署で緊密に連携して仕事していた時期がありました。
ジェフは、一つの 製品ライフサイクルの終了によって退職して会社を去りましたが、その後 全然連絡は取れずじまいで、その方法も わからないままになっていました。


それから 長い年月が経った 今年の1月下旬のこと、同じ会社で働いていた後輩のH氏 (日本人) から、ジェフの娘家族が ロサンゼルスの山火事に遭って自宅が全焼し、クラウドファンディングで住まいの再建の資金を募っているという連絡が来ました。
ジェフの名前を耳にしたのは、四半世紀ぶりでした。


今日は、ジェフとの出会いについて少し書きます。
筆者が1回目の米国勤務となって2年ほど経った頃、会社で、新しい高速通信方式に沿った新製品をアメリカで大々的に発売しようという企画が持ち上がりました。
当時はインターネットが国際間でもある程度普及しつつあった頃でした。ただ、1990年代前半は、まだ企業や各家庭に来ている回線はメタリック (銅線) が主流だったので、データ通信のスピードは せいぜい毎秒20キロビットという 非常に低速で、そのためパソコンのブラウザーの表示はとても遅かった。
そこで、すべての企業や家庭に 毎秒150メガビット とか 600メガビットくらいの高速な光ファイバーを行き渡らせ、それを機会に「コンピュータ間で伝達する大量のデータ」、「数千回線の電話の音声」、「生の動画映像」を、同じ光ファイバーの上に相乗りして一緒に遠くに届けることができるようにしようとの機運が盛り上がり、NTTやAT&Tなど世界の通信事業者と主要なメーカーが参加する ITU-Tという国際機関で 新しい通信規格(プロトコル)が1992年頃に制定されました。


通信規格が 概ね定まると、世界の有力なメーカーによって、それに対応した製品( 超高速の通信&インターネット用の通信機)を開発する競争が一気にスタートしました。
筆者の会社 (日本本社) でも一早く新製品を開発して世界中で売り出すことになりました。
筆者が当時出向駐在していた米国の子会社でも、その新製品を日本から導入して、米国とカナダなどを中心にリリースすることになり、専門の担当組織(Division)を立ち上げることになったのです。


当時、ダイヤルアップ・ルータなどを担当していた米人ディレクターのG氏が昇格してGeneral Managerとなって、その新製品を含めた通信システム事業を統括する事業部ができました。
筆者は、他の製品の担当を継続しながら出向する日本人の立場として、その「高速通信システム」も 兼務で担当することになり、そのG氏にも同時にレポートすることになりました。
その新設事業部は まだ人員が揃っていなかったので、責任者のG氏は精力的に採用活動をスタートし、筆者も同席して 現地米国人の採用面接に参加しました。採用は、すべてキャリア採用(経験者採用)です。
そして、応募して来た中に ジェフがいたのです。


ジェフを採用後も、セールスチーム、テストエンジニア、フィールド・エンジニアなど、十数名のメンバーを次々と採用して体制を整えてゆきました。 
ジェフは、ボスのG氏に次ぐポジションである製品計画 ラインマネジャーになりました。
主として、北米の顧客市場向けに、製品の発売リリース計画を立てたり、顧客や市場の要求を収集して要求仕様としてまとめたり、ドキュメント類を整備する指揮をとったりします。
筆者は、ジェフと密接に連携しながら、北米の市場要求を東京の開発部門に投げて、開発側の計画と 北米での発売リリース計画を、齟齬なく調整してゆくのが主な任務です。
こうして、筆者とジェフの二人三脚の仕事がスタートました。


ジェフは仕事のできる奴でした。そしてアメリカ人には珍しく、謙虚で温厚な人柄でした。  筆者は彼に対し何も不満を感じたことがありませんでした。
アメリカ人は基本的に午後6時までには帰宅します。そういう文化です。仕事で帰宅が日常的に遅くなると、配偶者から いつ離婚されても仕方ないという習慣の社会です。
一方で日本から来た出向駐在者は、米国の夕方6時過ぎに ちょうど日本のオフィスの朝が始まることもあって、その時間からが 一勝負というところがありました。
現地から専用回線で日本本社に電話をかけて 直接キーマンを呼び出して捕まえ、北米要望について説得したり、開発のスケジュールのキープを念押ししたり、その他 様々な交渉がどうしても必要というところがありました。 そうこうしていると夜の 9時, 10時になります。
ジェフは、普通の米人よりも少し長く会社に居て、1時間くらい残業していました。
一日の終業際の 夕6時半とか7時くらいに筆者のオフィスを覗きに来て、「Chris, Go home!」と言って、筆者を家に帰らせようとします。もちろん、筆者が東京側と交渉したり遅れの挽回を督促しているのを承知の上です。


こうして、私たちは非常に精力的に働きました。もちろん東京側のキーパーソンにも無理を聞いて貰い、大いに助けて貰いました。
新しい事業は少しづつ軌道に乗ってきました。


新製品を発売して1年ほどが経ち、大きな商談も獲得し、短期間で 年間数十ミリオン・ドルの売上が上がるまでに成長しました。2000年頃のことです。


しかしながら、スタートから3年ほど経って、以前からあった通信の方式が性能アップで高速化して盛り返し、その最大手であったC社の製品がマーケットで挽回してきました。 私たちが手掛けた新規格の製品は次第に旗色が悪くなってきました。
その要因はいくつかありますが、実際の顧客の現場(オフィス や コンピュータルーム)には、まだまだ数多くの従来規格の古い端末が 使われていました。
従来方式の製品が 長距離伝送のスピード性能で追いつき、かつ、古い端末をそのまま収容できて価格も やや安かったので、結果的に逆転されたという形でした。


世の中のデマンドも、高速化した従来型製品が 盛り返して巻き返して来ました。
会社の中で  新製品の売上は 次第に下降線となりました。そして 我々の製品が再逆転することは難しいことが、鮮明になってきたのです。事業の縮小、体制の縮小も暗黙のうちに視野に入りつつありました。
結果的に、「グローバル・スタンダード」 が 「デファクト・スタンダード」に敗れた形となりました。


そんな時、ジェフが辞表を出したと聞きました。これまで苦労と喜びを共にして来たので、筆者は大きなショックを受けました。
一旦辞表を出すと、実際の退職日までに会社に姿を現すことはほぼないので、職場でジェフと話すこともできなくなりました。
総責任者のG氏に聞くと、「解雇したのではなく、自ら辞表を出した」とのことでした。G氏は「残留を説得するのは無理だと思う」と言いました。
それでも、販売した製品は アフターサポートも必要だし、この先もまだ性能の強化計画が幾つかあったので、ここでジェフを失うことは大きな痛手でした。
筆者は、ジェフの自宅を訪ねて、退職を思いとどまらせることを試みました。


ジェフの家の場所は知っていました。  なぜなら、ジェフは、私と家族を何度も家に招待してくれましたから。
私の息子も ジェフ家の子供たちと仲良くなって、将棋を指したり プールで泳いだり、親しく遊ぶようになっていました。妻も、ジェフの奥様と一緒に ジャポニカ米のご飯を炊いたり、枝豆をゆでたり、クラフトを見せたりしていました。
筆者も彼の家族を 自宅に何度か招き、家族ぐるみで徐々に親交が深くなっていたのでした。
またジェフは、東京の開発部門から 打ち合わせで出張者が来て1週間以上滞在するような場合には、会社が休みの週末越えがあるので、土曜日か日曜日に その出張者を家に招き、一緒に私も呼んでくれてパーティーをしてくれました。
彼の家には、10人近く入れる大きなプールがあり、ビリヤード専用ルームもあるアメリカン・ハウスでした。たいていはバーベキューをして週末の一日を楽しく過ごしたことが何度もあった場所です。 目を閉じてでも運転して行けます。


週末の休みの日にジェフの家を襲って時間を気にせず話しました。辞める決心をした理由を話してもらい、もう暫く とどまってくれないかと説得もしました。
しかし、彼の決心を覆すことはできなかった。
アメリカには終身雇用はありません。3年から5年おきくらいに会社を移って、その度にキャリアを高めてサラリーも上がってゆくのが普通のやり方の社会です。
今の会社にとどまっていても、彼の得意分野・やりたい仕事でキャリアを高められるパスはありません。
ジェフは、「〇〇社には、これ以上もう僕の仕事はない。売上が落ちた今、コストを削減しなければならない時だから、僕が残っていては かえって難しくなると思う。」と言って、堅い決心が変わることはありませんでした。
引き下がるしかありませんでした。


明けた月曜日に、ビッグボスのG氏の席に行って、「ジェフの家に行って説得したけれど、無理でした。」と言うと、G氏は非常に驚いていました。私がそこまで説得したことに大きなインパクトを受けたようでした。
ちなみに、G氏(アメリカ人)も、その後 半年ほどして会社を去りました。


手掛けていた新しい事業分野は、残念ながらライバル社も含めて世界的に縮小して行きました。 世界規格に一早く準拠した期待のハイテク新製品も、デファクトに敗れたという例です。


あれから 二十数年。
今年の年明け早々に、TVで カリフォルニア州で山火事が広がり住宅街まで火の手が襲って数千棟が消失またはその危機に瀕しているというニュースが 連日報じられて驚いていました。
更に3週間ほどして、同じ会社に勤めていたH氏からジェフの娘さん一家が 家を消失してクラウドファンディングで寄付を募っていると知らせがあり、もしかしたら、H氏がジェフ個人の連絡先も知っているかと訊いたら、メールアドレスを調べてくれました。


そして先日、ジェフに おっかなびっくりメールを送ってみたら、なんと25, 6年 ぶりに連絡がありました。Connected !!
ジェフ自身も、奥様も、二人の子も元気だとのことです。その子らも既に40歳近いでしょう。
いま、彼の娘さん宛てに、いくらかの支援を送る手続きを進めているところです。
あのとき 一緒に頑張ってくれたジェフの助けに 少しでもなったらいいなと。


落ち着いたら、テキサスかカリフォルニアか東京で、再会の機会があると良いです。
ではまた。